<掃部山公園> 掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治時代に入ってからは「鉄道山」と呼ばれていた。
これは日本に初めての鉄道が新橋〜横浜間に敷設されたときに、この地が事業拠点となったからである。
1882年(明治15年)頃に旧彦根藩の士族らが、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、
この「鉄道山(現:掃部山)」と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有とした。
それに伴い、当時井伊直弼が名乗っていた「井伊掃部頭直弼(いい かもんのかみ なおすけ)」に
因んで「掃部山(かもんやま)」と呼ぶようになった。
井伊掃部頭直弼像は1909年(明治42年)に横浜開港50周年を記念して建てられたが、
第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまった。
現在の銅像は1954年(昭和29年)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。
ちなみにこの像は台座を含めると11メートルというかなり大きいものだ。
銅像は一度回収され2代目となるが、現在の台座は1909年(明治42年)当時のそのままだという。
この地が公園として公開されるに至ったのは、1914年(大正3年)、井伊家がこの地を市民の憩いの場として提供することとし、
横浜市に寄付したことによるもので、整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園された。この掃部山公園では、
井伊直弼が茶道に通じていることから、1965年(昭和40年)より毎年8月には茶会「虫の音を聞く会」を開催している。
園内には「横浜能楽堂」があり、毎年9月には「薪能」も開かれる。
また、ここは桜の名所としてもよく知られている。
みなとみらいという街中で、ここだけ対照的に別世界のように緑が濃く、とても静かな公園だ。
しかし、桜の季節だけは花見客で大賑わいとなる。
約200本の桜が満開となればそれは綺麗なものである。
<井伊直弼>
1815年生、1860年没。井伊直弼は、父、直中の14男として生まれる。
直弼が5歳の時母と死別しまた、17歳の時に父直中とも死別する。
それから直弼は32歳まで一人で心神を修練することになる。
だが、1850年に彦根藩主となりその後の1858年44歳の時に江戸幕府の大老まで上り詰めた。
日米修好通商条約の調印と将軍だった徳川家定の後継者をめぐって反幕府運動が起こり
井伊直弼は強権をもって公家や大名などの約100人を罰した。
この為1860年3月24日に水戸藩や薩摩藩の浪士らに江戸城の
桜田門近辺で襲撃を受け、46歳で息を絶った。
これが桜田門外の変である。
井伊掃部頭直弼の頃の像は「掃部山公園」の他に滋賀県彦根市にある
彦根城内の公園に今も立っている。 |