奄美大島

奄美大島は8つの有人島からなる奄美諸島の中心。
大島を中心に点在する島々をひとまとめに「奄美群島」と呼ばれています。

Amami Oshima

奄美大島について

  • 地理

    九州南方海上にある奄美諸島の主要島(鹿児島県)


  • 面積

    712.35キロ平方メートル
    (日本の島としては沖縄本島、佐渡島に次ぎ3番目の大きさ)


  • 気候

    亜熱帯気候(年間平均気温21℃)


  • 人口

    約68,000人


  • 産業・特産品

    大島紬
    (弊社の職員が2007年11月〜2008年10月まで「ミス紬」として活動)
    黒糖・黒糖焼酎・たんかん・島バナナなど


  • アクセス

    奄美大島までは、飛行機か船でのアクセスになります。


  • 天然記念物

    アマミノクロウサギ(国特別天然記念物)
    ルリカケス(国天然記念物、鹿児島県鳥)


奄美群島 イラスト


奄美大島の歴史

琉球王朝時代

1266年琉球王に入貢した。それ以来奄美と琉球王朝は親しい関係となるが、1429年尚巴志が沖縄全島を統一して権力を握ると、その関係は服従関係に変わっていく。
薩摩藩にとって琉球侵攻支配のための道としての島であった奄美諸島は「道の島」と呼ばれていた。それは、薩摩藩による苛酷な政治の歴史と重なる。

薩摩藩時代

1609年、薩摩藩は道の島を経由して一気に琉球に侵攻。これが受難の歴史の幕開けであった。特産である砂糖に目をつけた薩摩藩は、苛酷なまでに収奪する。島民らは封建社会の中で認められるわずかな自由さえ奪われ、奄美は奴隷の島と化したのだ。
奄美といえば島唄が有名だが、これは当時のこのような圧迫の中から、民衆の呻き声として生み出されたものなのである。
以降続いた奄美への支配はそのまま明治時代中期まで引き継がれるが、その後奄美は経済的に独立し、それは1940年まで続いた。

奄美大島でのエピソード

奄美大島の人々は、当時換金作物のサトウキビや甘藷の植え付けを強制されていた。収穫した作物は全て信じられないほどの安値で薩摩藩に買い取られていった。サトウキビを島民が食すると罰せられるので、自分たちが作っているサトウキビの味を知らなかったと言われている。
幼い子供たちが隠れてサトウキビを少しでもかじったのが役人に見つかると、厳しく処罰されたくらいであった。ある年、サトウキビが不作であったため、生産量を達成できなかった農民達がいた。
島の役人たちはそのことが自分の手落ちになることを恐れ、この農民たちに厳しい拷問を加えた。
このような拷問が行われていることを聞き、西郷隆盛は在番役人の相良角兵衛に面会を求め、農民たちを解放するように頼んだ。
しかし、普段から島民に対し威張りきって傲慢になっていた相良は、西郷の意見を完全に無視した。
この相良の態度に怒った西郷は、「方針を改めないのなら、私が直接藩主公に対し、建言書を書きます、あなたの日頃の態度も併せて上申するつもりですから、覚悟しておきなさい」と言い放ち、席を立った。
驚いた相良は大いに後悔し、態度を豹変させ、西郷に対し平謝りし、農民を解放することを約束した。

西郷隆盛

西郷は、貧しい下級武士の子として薩摩国(現:鹿児島県)に生まれた。幼少の頃は武芸ではなく学問に励んでいた。そのことが、彼にとって後年大いに役立ったといえる。
16才のとき、西郷は藩の郡方書役助に任命される。郡方書役助とは、農政をつかさどる役所の書記官補助のことで、郡方は年貢(税)の徴収等を行っていた。文政10年12月7日(1828年1月23日)-明治10年(1877年9月24日)、江戸時代末期(幕末)から明治における偉大な日本の政治家として生涯を閉じる。(享年49歳)

産業:大島紬(現在、弊社の職員は2007年11月〜2008年10月まで「ミス紬」として活動)

大島紬とは

大島紬とは、絹100%先染め手織り平織り締機(しめばた)で手作業により経緯(たてよこ)絣および緯(よこ)絣を加工したもので、手機(てばた)で経緯絣および緯絣をかすり合わせをして織り上げたもの。

歴史

大島紬 写真1奄美における養蚕の歴史は古く、奈良朝(710〜793年)以前から手紡ぎ糸で褐色紬がつくられていたようで、奈良東大寺や正倉院の献物帳に「南島から褐色紬が献上された」との記録が残されています。
藩政時代、奄美の島民は薩摩藩の黒糖政策により過酷な労働と上納を強いられ、それが明治初期まで続いた。島民は悲惨な生活のなかで、紬や木綿布、芭蕉布を織り、それらが上納や役人との交際用、あるいは生活物資との交換に使用された。
また、家族のために思いを込めて糸を紡ぎ、絣をくくり、泥染めや植物染めを繰り返しつつ、夜の更けるのもいとわずにイザリ機で伝統技術の伝承に努力をしてきた。その尊い労作の衣服が手織りの絣、花織の木綿、芭蕉布などの資料により明らかにされている。
明治に入り、本場奄美大島紬は鹿児島をはじめ、大阪等の市場に奄美の人々によって商品化されて出回り、泥染めの渋い絣紋様の本場奄美大島紬が人気となり、これまで各種の植物染料で染められていたものを車輪梅と泥だけの使用を業者間で統一した。従来の泥染大島紬に加え、泥藍大島紬、色大島、草木染大島紬などの新商品が続々と開発され、飛躍的な発展を遂げている。

  • 大島紬 写真2
  • 大島紬 写真3
  • ミス紬

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奄美開発センター

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