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見出し1:薩摩時代

見出し2:薩摩の侵攻と支配

 薩摩による琉球・奄美への侵攻は、1609年3月4日に開始された。
当時の薩摩藩主島津家久の命により、大将樺山久高、副将平田増宗等約3.000人の軍隊と約100隻の軍船が薩摩半島南端に近い山川湊(現山川港)に集結した。船団は奄美各島と琉球の侵攻・支配のため3月4日未明に出帆した。
 また、この船団には南海の海路を熟知したトカラ列島の船頭も乗り込んだ。

奄美大島(奄美本島)〜

 トカラ列島を経て、奄美大島の手前で強風により船団がバラバラになったが、それぞれの船団は奄美大島各所に上陸した(3月8日)。
 3月8日に津代湊(奄美市笠利町)に着いた船団は、島民との間で戦闘となった。島民は約3,000人が集結し、柵を築いたりして防いだが薩摩の鉄砲の前になす術なく制圧された。
 一方、現在の場所ははっきりしないが「深江ケ浦」に着いた船団は全く抵抗を受けず上陸した。
 3月19日に30数隻の船団が宇検村焼内湾(やけうちわん)に着いた。島民は徹底抗戦した。薩摩軍は夜襲を受け大きな損害を被った。薩摩軍はこれに激怒し、上陸して村を全て焼き払った。
抵抗はあったものの、奄美大島は数日のうちに支配された(3月15日)。

喜界島〜

 喜界島の西目間切の大親(長)は奄美本島での薩摩軍の侵攻の様子を聞き、勝ち目はないと悟った。大親は奄美本島東間切へ船で渡ると、樺山久高・平田増宗に謁見し降参を申し出た。

徳之島〜

 3月20日の早朝に西古見を出帆。夕方近くに徳之島の秋徳湊(現在の亀徳港)に到着した。集まった船団は70数隻であった。
 秋徳湊には琉球からの軍隊も備えており、激しい戦闘が繰り広げられた。
掟役だった佐武良兼(さぶらがね)と弟思呉良兼(めぐらがね)が先頭に立って勇敢に戦ったが、やはり薩摩の鉄砲の威力には勝てず200〜300人の戦死者を出して制圧された(3月22日)。

沖永良部島〜

 3月21日から3月24日にかけて薩摩の船団は次々と沖永良部島へ迫った。
島民は薩摩の船団がサンゴ礁で囲まれている同島に上陸できないと予測していた。ところが容易に船団はサンゴ礁の上を乗り越え、同島に上陸した(記録では島崎(現在の住吉・正名)へ上陸した様子が残されている)。
 上陸した薩摩軍に対して島民は全くの無抵抗であったため、島は即座に征服された。

これにより奄美群島はわずか17日間で薩摩藩に制圧されることとなった。

与論島〜

与論への上陸については不明。

琉球〜

 薩摩の船団は3月26日に沖縄本島北部の本部半島(運天港)に上陸し、27日に難なく今帰仁城を制圧した。
4月5日には首里城制圧。尚寧王は降伏して薩摩藩の支配下に置かれた。
 しかし、薩摩藩としては中国(明)に対し琉球が独立国であると見せかける必要があったため、表向き琉球王国は存続という形となった。これも中国との交易の利益を確保するためである(当時の明は江戸幕府や薩摩藩との交易を拒んでいた)。