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見出し1:明治時代〜現代

見出し2:太平洋戦争下の奄美

 奄美群島は明治時代半ばにようやく鹿児島県(旧薩摩藩)からの黒糖搾取から事実上解放されたが、今度は戦争の波に呑まれていくこととなる。

奄美大島要塞

大島海峡(奄美大島要塞)  第一次世界大戦の終わりを機に旧日本軍は奄美大島(瀬戸内町の大島海峡)の要塞化を図る(当時の軍事力で鍵を握っていたのが戦艦であったため、大型の戦艦を収容できる大島海峡は軍事上重要な拠点と考えられていた)。
 1920年(大正9年)頃から奄美大島要塞の工事が着々と始められた。
1922年のワシントン軍縮条約締結のため工事は一時中断したが、その後も奄美大島要塞司令部が置かれるなど工事は引き続き行われた。

 太平洋戦争末期には日本本土を守るため、沖縄の次の砦として多くの軍隊が奄美大島要塞に結集した。しかし、アメリカ軍の上陸を待たず終戦(1945年(昭和20年))を迎えた。

<主な設備>
・奄美大島要塞司令部(奄美大島本島・古仁屋)
・皆津崎砲台(奄美大島本島東端)
・西古見砲台(奄美大島本島西端)
・実久砲台(加計呂麻島西端)
・安脚場砲台(加計呂麻島東端)
・江仁屋離島砲台(大島海峡西端)
・手安飛行場(奄美大島本島)
・手安弾薬庫(奄美大島本島)
・特攻艇震洋基地(加計呂麻島)
・特攻隊喜界島基地(喜界島)
・特攻隊徳之島基地(徳之島)

(写真:太平洋戦争時に海峡全てが要塞化された大島海峡(奄美大島本島側より))

戦争の状況

 1944年(昭和19年)頃から奄美群島への空襲が始まった。翌1945年(昭和20年)3月にアメリカ軍が沖縄へ上陸を開始すると、同時に奄美群島への空襲も激化した。

 空襲により人口の多い町や集落は全壊した(名瀬・笠利・古仁屋(以上、奄美大島本島)、湾(喜界島)、亀津・天城(徳之島)、和泊(沖永良部島)、与論(与論島)等)

 戦争が激化してくると、青年男女は兵隊や軍需工場へ送られた。
生活物資は高騰し、経済は破綻した。そのため物価統制が行われ、配給制度が始まった。

 同年7月には鹿児島県知事から奄美群島の人々に対し強制疎開命令が出された。
軍事的な労働に向かない老人や子供、女性などが対象とされ、鹿児島本土へ船で送られていった。

 太平洋戦争末期となると、奄美群島は沖縄への軍人や軍事物資の運搬経路となった。その中で痛ましい富山丸沈没事件なども起きた。
 アメリカ軍の攻撃により日本本土と奄美群島間の船の行き来が困難となり、人や物資の運搬が滞ってきた頃終戦を迎えた。

 空襲などにより、奄美群島では死者が629人、戦災戸数が13,415戸にのぼった。
(ちなみに沖縄では死者約200,000人(日本軍約94,000人、沖縄県民約94,000人、米軍12,520人))